mactan島

なんだか元気のない日本。
その元凶は少子高齢化社会になったから。
それに比べて元気のあるフィリピン。
子供は宝です。

N国党も、彼らを批判する人々も陥る「優先順位の崩壊」という罠

「忌々しい存在」への怒りに支配される
批判が激化、支持者は増加…?

NHKから国民を守る党(N国党)に対する世間の風当たりが、参院選での熱狂から一転して強まっている。


離党した区議への脅迫容疑で、党首の立花孝志参議院議員が警察の事情聴取を受けたことが大きくテレビ報道されたこと、また今春にも地方選の街頭演説でヤジを飛ばした人物を「私人逮捕」していたのが新聞紙面で改めて取り上げられたことで、批判に弾みがついたようだ。


その一方で、皮肉なことに立花氏のYouTubeチャンネルの登録者数は増加し続けている。最近1か月だけでも4万人増え、49万6000人に上昇した(9月26日現在)。


動画の内容を見ても、国民民主党の玉木雄一郎代表やホリエモンこと堀江貴文氏、元みんなの党代表で無所属の渡辺喜美氏らと対談を次々に実現。堀江氏との動画はYouTubeの急上昇ランキング1位となり、193万回を超える再生数を記録している(同)。


つまり、むしろ立花氏お得意の「炎上商法」によって無党派層が掘り起こされ、支持層の拡大に成功しているようにも見えるのだ。N国党への批判の激化と、支持者の増加――このギャップは一体何なのだろうか?


それを解く鍵のひとつが、世界中で吹き荒れている「ネットによる部族主義の先鋭化」と「アテンション・エコノミー(関心経済)の暴走」だ。


〈(批評家のマーシャル・)マクルーハンが予言したように、私たちはいま、政治的にふたたび部族として結束する日々を生きている。部族としてふたたび結束と私が言ったのは、部族的な忠誠心とアイデンティティーは、現代の政治よりも、はるかに長い時間にわたって人類の存在を特徴づけてきたからだ〉(*1)


これはジャーナリストのジェイミー・バートレットが「再部族化行為」(リ・トライバリゼーション)と名付けた現象で、近年世界各国で台頭している「政治的なデジタルコミュニティ」の発生メカニズムを説明するものだ。


バートレットは、多くの人々がソーシャルメディアに接する中で、これまでネットを検索しなければ知らなかった情報などに触れて、そこで出会った他者たちと「共通する不平意識」を発見し、その「怒り」が強い連帯意識を生み出している事実に着目した。


「現代においては、人を問わず、誰もが虐げられたり、激高したり、あるいは抑圧されたり、脅かされたりしていると感じて当然の理由を山ほど抱え込んでいる」からだ。これが政治運動の領域にも浸透してきているのである。


N国党は、NHKに象徴される既得権益層に対する「怒り」が共有され、立花氏と支持者・視聴者がともにNHKやマスコミに立ち向かう「参加型ドキュメンタリー」の様相を呈している。


既得権益層には、記者クラブに加盟しているNHK以外のマスメディアも含まれている。これらのオールドメディアとネットメディアの非対称性そのものが、「部族としてふたたび結束する」〝戦線〟を切り開いた格好だ。


他方、N国党への批判を強める「アンチ」の人々も「再部族化行為」のメカニズムから逃れることはできない。N国党のような「ゴロツキ集団」「カルト集団」が政界進出を遂げたことへの「怒り」を原動力とし、ネットを通じて結集している点では、N国党の支持者と相似だからだ。


N国党とその支持者の怒りと、それに対するアンチの怒り。これらが鏡写しのようにネット炎上の起爆剤となり、口コミを促進して低コストで顧客獲得を達成する「バイラル・マーケティング」と同様の機能を果たしてしまっている。


アンチの反感が支持につながる
コンピューター科学者のジャロン・ラニアーは、ソーシャルメディアのビジネスモデルについて、「人々が苛立ち、妄想に取り憑かれ、分断され、怒っているときにより多くの金を生む」システムであると看破した(*2)。


「エンゲージメント」(結びつき)という言葉は、まさにその核心を指すものだ。ある投稿や記事に対する「いいね!」「シェア」が増大することは、ネットビジネス業界では「エンゲージメントが高まる」という言い方で表現されることが多いが、そこでは「バズること」も「炎上すること」も等価な現象となってしまう。


そのような条件下では、ソーシャルメディアの特性を最大限利用し、一方で失うものを持たないN国党が、おおよそ望んだ通りの成果を手に入れる。


N国党に反感を持つ人々が、立花氏の暴挙といった「炎上ネタ」を拡散すればするほど、かえって認知度が爆発的に広がることとなり、Twitterで「トレンド入り」する。YouTubeのチャンネル登録者数や再生回数が伸びる。このような「炎上商法」から、N国党はファン獲得につながる循環を作り上げている。


アンチの人々は貴重な可処分時間を費やし、「敵を利する」宣伝に一役買うことになってしまう。結局のところ、大きな果実を得るのはN国党となる。これはドナルド・トランプ大統領がTwitterで展開した戦略と瓜二つである(立花氏の場合はYouTubeを主戦場に選んだことで、賛否いずれも視聴者層として取り込んだ)。


ラニアー的に言えば、「支持者」と「アンチ」の両者は、「炎上が金を生む」ソーシャルメディアのいびつなビジネスモデルを否定しない、という点で実のところ〝共犯関係〟にあるのだ。アテンション・エコノミーに罪はない、というわけである。


「正しい判断」の終焉
マスメディアが適切な情報発信を行っていれば、ポピュリズム的な勢力が台頭することはなかったという見方がある。しかし、これはあまりに素朴過ぎるだろう。


有権者に「まともな情報」を与えれば「まともな候補者」を選ぶと考えるのは誤りだ。それは「ゆとりのある中間層」が多数派であった時代にしか通用しない幻想だ(そのような時代そのものが幻想だった可能性はあるが)。


しかも、そのような時代には、ネットがまだわたしたちの生活を支配するインフラではなかったことが抜け落ちている。


「ゆとりのある中間層」は、「正規雇用・所得上昇が確実視される経済的な安定性」と、「社縁や地縁などの共同性が期待できる社会的な安定性」という2つの条件がそろわないと容易に崩壊する。公平性が一貫されなくなった社会において、人々が「不安や不満の感情」に引きずられないようにするのは至難の技だ。


そこで、政治的なデジタルコミュニティの出番となる。ネットの大海に出現した過激なアジテーター(扇動者)が、分かりやすいロジックで「感情」のはけ口を提供する。「自分たちがもらえたはずのパイを奪って、のうのうとふんぞり返っているのは誰か?」「――労せずして巨大な資本や特権を享受している既得権益層に決まっている」。


既得権益層による悪事が次々と暴かれる情報環境の下で、このような単純化の誘惑に打ち克つ見込みがあるのは、先述したように、安定した生活から生まれる「自尊感情」の回復しかない。


ただ、この実現はほとんど不可能に近い。極論を言えば、今後は数多のデジタルコミュニティが人々の「自尊感情」のささやかなオアシスにならざるを得ない。そこには当然過激な言説や主張を持つものも出てくる。


「優先順位」が機能しなくなる
このまま「再部族化行為」が氾濫し続け、アテンション・エコノミーがもてはやされ続けると、脅威に対する「遠近法の崩壊」が起こることが懸念される。どういうことか。


脅威に対する「遠近法の崩壊」とは、ひとことでいえば、ものごとの「優先順位」が機能しなくなってしまう状況だ。


例えば、会社員にとって「仕事での大きな失敗」や「家族との関係悪化」は、わが身に差し迫った「実際上の脅威」と言える。しかし、こうした現実よりも、「ソーシャルメディア上での不愉快なリプライ」や「会ったこともない外国人の意見」のような「情報空間における脅威」のほうが「わがこと」であると感じられ、激しく感情的な反応をしてしまう――そのような事態が現出し始めている。


あなたがアフリカのサバンナにいるとしよう。大きな川の向こうにライオンの群れがいる。あなたはライオンの群れに脅威を感じて、遠くの景色にばかり気を取られてしまう。本当の脅威は道の先を這っている毒蛇であったりするのだが、それにはまったく気付かず、「川を渡って来ることはないライオン」に恐怖をおぼえる……。


オンライン環境の想像を上回る弊害の正体は、一人ひとりの現実の生活圏を取り巻く「今ここ」の出来事よりも、「地球の裏側で起こったテロ」「隣国との外交関係の悪化」「極端なヘイトグループの言説」といったものごとのほうが、はるかに激しく「自分の感情を乱す対象」として感じられてしまうことだ。


つまり、それによってある社会問題についての重要性を推し量る「優先順位のカオス(混沌)」がもたらされる恐れがある。


あらゆる人の怒りが可視化される時代
N国党現象に引き寄せれば、「NHKをぶっ壊す」というフレーズに込められた既得権益層への反発と、例えば「消費増税に踏み切った現政権」や「改憲案に緊急事態条項を盛り込んだ自民党」といった政治権力への反発が並列され、優先順位の混乱が起きているとみなすのが妥当といえるかもしれない。


また、国会にわずか2議席しか持たない弱小政党に「民主主義の危機」を見出して大騒ぎするよりも、具体的な政策や不祥事に対して批判を行うことのほうが、いくぶん実際的であるとの見方にも一理あるといえるだろう。


だが、もはや「皆にとって正しい優先順位」などというものは存在しない。バートレットが言うように、「誰もが虐げられたり、激高したり、あるいは抑圧されたり、脅かされたりしていると感じて当然の理由を山ほど抱え込んでいる」からであり、その肝心の中身は個人ごとに驚くほど異なっていることが、ネット上で可視化され、肯定されるからだ。


ソーシャルメディア上では、社会問題や権力そのものではなく、「自分の感情を逆なでする何か忌々しい存在」、それが最も重大なイシュー(争点)になるのである。恐らくN国党バッシングで一番得をするのは、意図せずして関心をそらせる現政権だろう。


このような世界に投げ込まれているわたしたちには、「遠近法の崩壊」は多かれ少なかれ避けられない事態であることを重々承知しながら、ネット空間とデジタルデバイスの心理的な引力からうまく距離を取るバランス感覚が必要なようだ。


「安全で快適なソーシャルメディア利用」といった口当たりの良い注意喚起の裏には、こうした難易度の高い「綱渡り」が暗に求められているのだとしたら――?


(*1)ジェイミー・バートレット、秋山勝訳『操られる民主主義 デジタル・テクノロジーはいかにして社会を破壊するか』草思社。
(*2)ジャロン・ラニアー、大沢章子訳『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』亜紀書房。


20190928    真鍋 厚     評論家・著述家



うちのパパイヤが11cmになった。

北海道旅行 積丹岬・島武意海岸  後方には樺太がある。

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